「ソーシャル・ネットワーク」(THE SOCIAL NETWORK) [2010.米]

vertigonote2011-02-01


クラシックにしてフレッシュ。面白いという以外に言葉が見つからない。
――嘘。膨大な量のとりとめのない感想が頭のなかを駆け巡って、どんな言葉を選んで語ればよいのかわからなくなる。傑作であることは疑いようがないのだけれど。いったいなんなのだろう、この感覚は。

そう若くなくネットメディアに愛着もない作り手たち――当代一のビジュアリスト監督とテクニカルな声の嵐を産む脚本家が、感情ではなく技術でここまで時代の気分や世代感覚にリーチしてしまった凄み。彼らが作った世界を彩る雄弁な身体と印象的な声を持った若手俳優たちのアンサンブルの完璧さも忘れ難ければ、トレント・レズナー&アティカス・ロスの常に微音のノイズを含むスコアがプラスティックな世界をエモーショナルに躍動させる心地よさもたまらない。
閉じた社会の絶望的な美しさと儚さと膨大な情報量に翻弄され、歓喜の声を噛み殺す120分、興奮が一度たりともおさまらなかった。狂熱とクールネス。フィンチャーの映画はいつだってセクシーだ。常に的確に昏い快楽を与えてくれる。

「ファイナルクラブのパーティには女の子たちがバスで乗り付けるそうね」
「秋学期最初の“フェニックス”のパーティへ、ようこそ!」
「αεπのパーティがあった カリビアン・ナイトだ」
「パーティを11時でお開きにするな」
「パーティを終わらせたくない」
「会議でもパーティでもいい服装で行った」
「100万人突破のパーティは、フラタニティの女子たちとやるんだ」
「パーティは終わりだ!」

ああ、これは【PARTY】についての映画なのだ。1度目はなんとなくそう思い、2度目に見たときにそれが確信に変わった。マーク・ザッカーバーグが何かを始める瞬間には必ずパーティ、あるいはそれに準ずる大音量の音楽と声がセットのようにカットバックで入ってくる。そして同時に彼が始めたサービスにPARTY(徒党)が集まっていく。時代が動くとき、そこにはいつもPARTYがある、ということ。24 HOUR PARTY PEOPLE。加速する人々の集団。ムーブメントはいつだって何気なく始まり、唐突に終焉を迎える。ビジネスは終わらない、物語も終わらない、けれど終わらないパーティはない――

だからこれは新世紀の“ジャズ・エイジの物語”。繰り返される“パーティ”と新たなメディアの時代を構成する若者たち。アメリカ文化が描き続けてきた、狂乱と喪失の神話。Roaring Twentiesの気配を濃厚に漂わせつつも、だがしかしここにあるRoaring 00'sの子どもたちが求めるのは「もっと強く、激しく、速く、深く」。全速力で回転する時代の肖像。


あるいはこれはもうひとつの『ファイト・クラブ』。
マークが選ばれる側から選ぶ側に回った瞬間の言葉を思い出すといい。
"Welcome to facebook!"
タイラー・ダーデンがここにいる。新しいパーティを作る者が帝王になる。脚本家違ってここまで似るのかってほどに、2作は似ている。10年の時を経て、再びリーチされた「時代の気分」も、物語の構造も。
マーク・ザッカーバーグが作った「ファイナル・クラブ」にして「ファイト・クラブ」としてのfacebook。そこに関わる青年たちの多くは細い体にナーヴァスな神経と高い頭脳を持った青年たち。そして彼らは「男」の記号から離れながらも、どうしようもなく――彼らが忌み嫌う“ハーヴァードの紳士たち”以上に――男らしさという名の化け物を信じている。

アメリカ”という社会が始まった時から、何百何十年もの時間が流れても今も続くエリート社会のミソジニックなホモソーシャル性を、ソーキンとフィンチャーは迷いなく描きだす。鮮やかな脚本においての一種の「図式化」は、事実がどうあれ、ひとつの真実は間違いなく捉えていると思う。トイレで“グルーピー”とファックするマークとエドゥアルドというシークエンスには本気でぞわっとした。誰のことも気にしてないマークの笑い声だけが聞こえ、その声に隣の個室にいるエドゥが反応する。二人の足元のカット。友人でありながら、何か緊張した関係とマークの特異性が端的に分かる鮮やかさ!「何か手伝うことある?」ときくクリスティたちを、マークは仲間にしたか?ショーン・パーカーは、取り巻きの女子たちを開発や経営に絡めていたか?性を描くことは直截的な肉体のふれあいを描くことだけが手段ではない、ということ。

映画内では彼らの肖像が決して批判も美化もされていないことにも注目しておきたい。“1作おきにホモソーシャルとカリスマの映画を撮る男”フィンチャーは、その作風と密接なものとしてミソジニックな世界を描く作品が多い人でもあるんだけど、一方でホモソーシャルって最高だよな、という印象を絶対に与えない。常に「そういうものだ」と描いてみせる。その視点のフラットさに、私は戦慄しながら興奮が増していく。“感動を与える記号”表現を切り捨てた先にしか見えない景色。


もしくは言語やパソコンのキーを打つ音まで音楽にしてしまった優れたミュージック・ビデオ。マーク役のジェシー・アイゼンバーグの“1センテンスを2秒で言い切る”台詞回しや“独演するメフィストフェレスジャスティン・ティンバーレイクのカリスマティックな声音(彼らが出会うシーン、メニューを読みあげるだけで「只者じゃない!」と思わせる当代きってのパフォーマーの素晴らしさ!)もひとつの音楽。その音楽に最も似合う「画」を見せる筆さばきのなんという巧みさ!

冒頭のエリカとマークの会話が、後半での崩壊の原因となるエドゥアルドとマークの会話に重なっていることに2度目でやっと気づいたのも、音が完璧に演出されていたからだった。そこにたった一度だけオープニングタイトルでキャンパスに戻るシーンの“Hand Covers Bruise”のメロディが再び使われるのだ。彼女に振られたナードの逆襲に矮小化した話、に見えて、それだけじゃない。あちら側(=“クラブ”)へ連れて行きたかった2人に自分と違う感情があることが理解できなかったマーク。本当に“WELCOME TO MY PARTY”が言いたかった相手との関係が終わる瞬間にだけ、あのメロディが使われている。あれはエリカのテーマ曲でもマークの孤独のテーマ曲でもなく、青年が社会とのリンク点を喪失する、broke upのテーマ曲だったのだ、と気づいた衝撃ときたら!

過去と現在、地点を東海岸と西海岸の複数ポイントに配置して鮮やかに飛び回る脚本と編集技術はどうかしているくらいトリッキーだけど、基本はものすごくクラシックな作劇の青春映画。最大の特性はラストでザッカーバーグに「それまで誰にも言わなかったひとこと」を言わせて、最初の地点に連れ戻したことだ。ラストでオープニングを回収する映画が大好きなので、この構造美には本当にゾクゾクした。またこの瞬間のジェシー・アイゼンバーグは本当に素晴らしい貌を見せるんだ。悲しみとも孤独とも怒りとも不安とももちろん喜びや楽しみともさらには無表情とも違う貌。

という点に触れるのであれば、そのほかの俳優たちの表情の切り出し方も絶妙であることにも触れておきたい。この映画には「分かりやすい」顔をした人物がほとんどいない。あの特徴的なウィンクルボス・ツインズ(アーミー・ハマーは殊勲賞ものだ)やディヴィヤ・ナレンドラ(マックス・ミンゲラ、名バイプレイヤーになりそう)さえも。代わりに一身に感情表現を担ったのはエドゥアルド役のアンドリュー・ガーフィールド。何度も細かく全身の表情を変化させ、感情を顔に出す。序盤で「当時はザ・フェイスブックだった」と言う瞬間にわずかに曇るあの表情。

ああ、魅力を言語化しても言語化してもどうにも追いつかない。
だから、とりあえずは今日はおしまい。

最後に――おそらく1980年生まれの私にとってはこの映画が同世代として“皮膚感覚で分かる”最後の青春映画になるだろう。それが最も好きな監督で“時代と寝続けられる男”フィンチャーの映画である巡り合わせ。その僅かな寂しさと凄まじい興奮と歓喜を抱きしめて、まずはうっとりと眠ることにしよう、と思う。(2011.1.22/2011.2.1 ユナイテッド・シネマとしまえんで鑑賞)